[日刊?] 原マサル
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服の断捨離&寄付(久我山駅の古着回収BOXへ)

京王井の頭線の久我山駅構内に突如として出現した「古着回収BOX」。
https://drive.google.com/file/d/1H4nd0GgRHJukPIGtUtXmrrVpLA05SICI/view?usp=sharing

最初はおずおずと様子見だったが(野生動物が人工物を発見したときのよう)、思い切ってもう着ない服を入れてみた。

なんてことはない、あっけなく済み、気をよくした私は時折、服をそこに寄付するようになった。

服の断捨離は大事、とよく言われるし、油断すると増えていくTシャツなどで衣類BOXが溢れかえって引き出しが閉まらない状態に私もなりがちだった。

たまに着ようと思えば着られないこともないし、これといって汚れたり傷んだりしてない分、捨てるのももったいない。
しかもそれがどこかへ観光旅行した際に土産物屋で買ったやつだったりすると、その観光名所のゆるキャラがデカデカとプリントされていたりして明らかに外へ着ていくには勇気が要るし、実際その勇気が湧くことはなくタンスの肥やし(死語か)になってるのに新品同様で何年も鎮座してたりする。

それらを!!

捨てる!!!

捨てるというか、「リサイクル」って響きが都合いい。よね?

物を無駄にしてない感じがするというか。まぁ偽善であり欺瞞なんだろうけれども。

そんなこんなで捨てたよ、山ほど。

それも何回も。

で、思うのが、「自分が整う、新しくなる、今の自分を知る」と、それにふさわしいかどうかで服を選べるようになること。
(ありきたりな手垢まみれの感慨)

特に昨日、リサイクルに出した服はどれも、ある一時期の自分が良くも悪くもヤンチャで子供じみてるけど楽しかった時期に買って着ていたもの。
愛着があるし、単純に傷んでいないので捨てるには惜しいものばかりだった。
でも、それを。

ちなみに私は物を捨てたり壊れてしまったとき、その「物」へのロスが起きるほう。
うっかり割ってしまった食器やカップなどは20年以上前のでも鮮明に覚えている。
まるで家族か誰かが亡くなったかのように。
だから服の断捨離でもそれが起こることがある。
今回、ロスらないかな大丈夫かなと自分でも不安だったのだが。
思いの外すっきりした。

それどころか、「あんなのを良しとしていたなんて」と、呪いが解けたような心地もした。
同時にその服を買った店やそこの店員など、服にまつわる記憶というか情報も整理されていく。
一言でいえば、「もう付き合いを持つにふさわしくない人(たち)」と感じてしまった。
文字面だけみたら何様だが、申し訳ないけどそう表現せざるをえない。
べつにその人たちの生き様や存在自体を批判や否定したいわけでもない。
ただ、今これからの自分とは違う路線だね、というだけ。
問題なのは、その人たちと関わっていた自分の動機だ。
ようするに、自分が人生で前に進みたくないから、そのウダウダとして彼らと一緒に遊ぶことを選択していた。
つまり彼らと関わることは、自分の弱さと逃げの象徴でもあったのだ。
なんてこった。

ということで、服の断捨離ひとつで人はこんなにも都合よくあれこれ思索のような戯言のために脳のスペックと寿命の一部を費やせるものなんですね、という〆。l

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