チェロ歴もはや14年目
2012年1月に意を決してチェロを習い始めた。
動機としては、自分が超感覚技を教える仕事を生業としていたものの、なにか体系だった教授法を知っていたわけではなく出来が悪い生徒をうまく指導できずに悩んでいたから。
別ジャンルで、まさに自分側が出来の悪い生徒になったとき、はたして教師たちはどのような対応をして教えてくれるものなのかをお手並み拝見……と。どこに出しても恥ずかしく後ろめたい動機だった。
そんなこんなで10年超。
思った&わかったのは、年月じゃないってこと。
上達するとき特有の集中モードが意識状態としてあり、ゾーンに入ったとでもいうのか、その状態で練習をすると、まるで形而上的な次元から演奏方法がダウンロードされてくるように上手くなる。
また、この十数年というのはYouTubeやSNSで多くの人が、ある程度の年齢いってから何かを始めても意外とものになるということを実証し、それ以前の偏見的?ある意味妥当?な「音楽は才能、しかも○歳から始めないと」的な呪縛的思想が必ずしも真実ではないことが音楽だけに限らずいろんな分野で証明されてきつつあった頃だと思う。
プロになって生業にするとまではいかなくても、べつに大人がアマチュアとして始めてもちゃんとやれば下手ではない程度には上手くなるよ、という集合知は形成されたように思う。
その最中を一貫して習い続けたこともあり。
レッスン自体で教わったこととは別に、それとなく耳にする&肌で感じる、どんどん「できる」という可能性をみんなが体現する方向に常識が変わっていくことに自分自身がはっとさせられる経験を何段階も経ることができた。
そして今は。
とうとう、私が演奏を披露したときに先生がため息をついて数秒間、放心状態になって感慨に浸るところまで来た。
ようするに、大人になってから習い始めてここまで上達した生徒というのを先生自身、これまで遭遇したことがなかったのではないかと思う。
もちろん、プロどころか、一流の音楽大学の入試で合格できる水準ともまだいえないレベルではあるが、それでもギコギコとどうしようもない雑音でご迷惑をかける段階からはずいぶん遠いところまで来ることができた。
私としては、やっと、ようやく、表現と呼べるところまで「音を放つ」行為を人為的に操作で為せるようになったと思う(←わかりにくい表現でごめんなさい。そうとしか呼べない、『やっとできるようになってきた』感覚があるのです、芽生えたのです)。
そして今さらというべきか、ここまで来て初めて「もっと上手くなりたい」と思うようになってきた。
いや、これまでの13年間は、もちろん上手くなれたらいいなと思って練習してきたものの。
かといって上手くなれると思って練習できるほど楽観的ではなかった。
し、かろうじて超初心者向けの楽曲は辿々しくも弾けるようになったとはいえ、そうなると今度は
「そりゃあこんな簡単な曲を、しかも芸術性は問わず(=0と換算して)機械的に間違えず弾けたかという意味でいうなら、そりゃあ練習時間を確保して機械的に動きを覚えて繰り返せばできるようになって当然だろ」
という、情けなさとしらけが来る有様。
その、上手くなれるとは思えず、どんぐりの背比べ(しかも他人とではなく当社比)程度には上手くなったとしても
「だから何(大の大人がわざわざ時間とお金と労力を多分に費やしてこの程度って投資効率悪すぎだろ)」
という自重自責に苛まれる(だけ)。
よくもまぁ途中で辞めなかったものだ。
コロナ禍になったときも、DTMのマウス操作で右手を痛めたときも(←厳密にいうといまだに完全回復はしておらず後遺症のように障害が残ってリハビリ中)。
そんなに私はチェロ熱があったか。
下手でもなんでもどうしても辞めたくない情熱があったか。
いいや、それは全然だ。
むしろ、続けるか辞めるかをわざわざ考えるほど大袈裟でも大事(おおごと)でもなく、どうしようもなく意識が低い惰性として「辞めるという行動をとらずに先延ばししていた」というのがいちばんしっくりくる。
辞める手続きの面倒さというか、これまで続いているものを断ち切る(大きな)エネルギーを出すのが億劫で続いてしまった。
でもそれが、音楽素人が大人になってから始めたにしては上出来という程度には楽器を演奏できる能力の獲得という恩恵へとつながったから人生よくわからず、面白いとも不可解ともいえるものである。
あと気がかりなのは、先生のお年とご健康。
最近とみに、急激に(ry
そういえば、YouTubeで偶然、ピアソラのアヴェ・マリアの演奏をいろんな演奏家の方ので探していたら、
チェリスト 寺井 創(てらい はじめ)さん
https://terai-hajime.com/
の存在を知った。
寺井さんが演奏するピアソラのアヴェ・マリア
https://youtu.be/VLjWwqW7pKc
家もそう遠くないし、アマチュア向けでも単発からレッスンしてくれるとのこと。
いま習っている先生に万が一のことがあったら、、、、
あっ、なんて不埒なことを考えてしまったんだろう、反省。
服の断捨離&寄付(久我山駅の古着回収BOXへ)
京王井の頭線の久我山駅構内に突如として出現した「古着回収BOX」。
https://drive.google.com/file/d/1H4nd0GgRHJukPIGtUtXmrrVpLA05SICI/view?usp=sharing
最初はおずおずと様子見だったが(野生動物が人工物を発見したときのよう)、思い切ってもう着ない服を入れてみた。
なんてことはない、あっけなく済み、気をよくした私は時折、服をそこに寄付するようになった。
服の断捨離は大事、とよく言われるし、油断すると増えていくTシャツなどで衣類BOXが溢れかえって引き出しが閉まらない状態に私もなりがちだった。
たまに着ようと思えば着られないこともないし、これといって汚れたり傷んだりしてない分、捨てるのももったいない。
しかもそれがどこかへ観光旅行した際に土産物屋で買ったやつだったりすると、その観光名所のゆるキャラがデカデカとプリントされていたりして明らかに外へ着ていくには勇気が要るし、実際その勇気が湧くことはなくタンスの肥やし(死語か)になってるのに新品同様で何年も鎮座してたりする。
それらを!!
捨てる!!!
捨てるというか、「リサイクル」って響きが都合いい。よね?
物を無駄にしてない感じがするというか。まぁ偽善であり欺瞞なんだろうけれども。
そんなこんなで捨てたよ、山ほど。
それも何回も。
で、思うのが、「自分が整う、新しくなる、今の自分を知る」と、それにふさわしいかどうかで服を選べるようになること。
(ありきたりな手垢まみれの感慨)
特に昨日、リサイクルに出した服はどれも、ある一時期の自分が良くも悪くもヤンチャで子供じみてるけど楽しかった時期に買って着ていたもの。
愛着があるし、単純に傷んでいないので捨てるには惜しいものばかりだった。
でも、それを。
ちなみに私は物を捨てたり壊れてしまったとき、その「物」へのロスが起きるほう。
うっかり割ってしまった食器やカップなどは20年以上前のでも鮮明に覚えている。
まるで家族か誰かが亡くなったかのように。
だから服の断捨離でもそれが起こることがある。
今回、ロスらないかな大丈夫かなと自分でも不安だったのだが。
思いの外すっきりした。
それどころか、「あんなのを良しとしていたなんて」と、呪いが解けたような心地もした。
同時にその服を買った店やそこの店員など、服にまつわる記憶というか情報も整理されていく。
一言でいえば、「もう付き合いを持つにふさわしくない人(たち)」と感じてしまった。
文字面だけみたら何様だが、申し訳ないけどそう表現せざるをえない。
べつにその人たちの生き様や存在自体を批判や否定したいわけでもない。
ただ、今これからの自分とは違う路線だね、というだけ。
問題なのは、その人たちと関わっていた自分の動機だ。
ようするに、自分が人生で前に進みたくないから、そのウダウダとして彼らと一緒に遊ぶことを選択していた。
つまり彼らと関わることは、自分の弱さと逃げの象徴でもあったのだ。
なんてこった。
ということで、服の断捨離ひとつで人はこんなにも都合よくあれこれ思索のような戯言のために脳のスペックと寿命の一部を費やせるものなんですね、という〆。l
尺八レッスン
石倉光山 氏
https://shaku8kozan.com/
にかれこれ7,8年前から尺八を稽古していただいている。
もともと祖父が尺八吹きで、「自分にも教えて」と3歳の頃から祖父に頼んでいたが有耶無耶にされたw
そんなこんなで四十の手習とばかりに石倉先生に入門。
コロナ禍の時期は用心して2年ほど稽古をお休みさせてもらったが、なんだかんだ続いている。
今では本曲とされるような、それなりに難しいとか本格的とされる楽曲を稽古していただけるようになり、せっかくなら師範免許も取ってしまおうかと都合よく妄想したり。
ただ、地球温暖化のためか、竹の生育が早すぎて柔らかく、以前のような硬さがなくなってしまっているそう。
素材としての竹の材質の変化に加え、尺八職人も伝統工芸あるあるで継ぎ手がいない現状が。
さらに邦楽自体、尺八自体が世間で流行っているかというと……。
たしかに、尺八の穴は5つしかないし、ただでさえ音が出にくい(まともに音が出るようになるまでに数年かかる人も)。
そこへきて西洋の音階+音程(のチューニング)が圧倒的多数派&一般的とされる昨今だ。
尺八を吹こうなんて選択自体が時代遅れどころか、止められない化石化をしつつある泥舟にわざわざ乗り込むような愚行なのだろうか。
そうじゃないといいんだけど。
あ、そんな社会全体の中での尺八の地位がどうのこうのなんて話とは別に、個人的には吹いてて楽しいです、尺八。
音色に己の人間性が出るんですよ、良いところも悪いところも。
そして、なんともいえない、ルパン三世の次元大介的な虚無僧っぽいクールさ?ムーミンのスナフキンっぽさ?が”わかる”心地がしたりして(←するかどうか謎、した方が人生にとってなにかプラスなのかどうかさえも謎w)。
尺八レッスン
石倉光山 氏
https://shaku8kozan.com/
にかれこれ7,8年前から尺八を稽古していただいている。
もともと祖父が尺八吹きで、「自分にも教えて」と3歳の頃から祖父に頼んでいたが有耶無耶にされたw
そんなこんなで四十の手習とばかりに石倉先生に入門。
コロナ禍の時期は用心して2年ほど稽古をお休みさせてもらったが、なんだかんだ続いている。
今では本曲とされるような、それなりに難しいとか本格的とされる楽曲を稽古していただけるようになり、せっかくなら師範免許も取ってしまおうかと都合よく妄想したり。
ただ、地球温暖化のためか、竹の生育が早すぎて柔らかく、以前のような硬さがなくなってしまっているそう。
素材としての竹の材質の変化に加え、尺八職人も伝統工芸あるあるで継ぎ手がいない現状が。
さらに邦楽自体、尺八自体が世間で流行っているかというと……。
たしかに、尺八の穴は5つしかないし、ただでさえ音が出にくい(まともに音が出るようになるまでに数年かかる人も)。
そこへきて西洋の音階+音程(のチューニング)が圧倒的多数派&一般的とされる昨今だ。
尺八を吹こうなんて選択自体が時代遅れどころか、止められない化石化をしつつある泥舟にわざわざ乗り込むような愚行なのだろうか。
そうじゃないといいんだけど。
あ、そんな社会全体の中での尺八の地位がどうのこうのなんて話とは別に、個人的には吹いてて楽しいです、尺八。
音色に己の人間性が出るんですよ、良いところも悪いところも。
そして、なんともいえない、ルパン三世の次元大介的な虚無僧っぽいクールさ?ムーミンのスナフキンっぽさ?が”わかる”心地がしたりして(←するかどうか謎、した方が人生にとってなにかプラスなのかどうかさえも謎w)。
Fiverrでフィーヴァーしようぜ!
フィーヴァー
https://www.fiverr.com/
という、ココナラの全世界版?サイトがある。
海外版ココナラ「Fiverr」の使い方とこれからの仕事術
https://note.com/ichiryumanbai/n/n02c161f74b4a
という解説note記事も見つけた。
日本語ネイティブというだけで、翻訳の仕事がいろいろあるらしい。
日本語のナレーション案件も(やりとりが英語などでも対応できるなら)獲れる?
生成AIを使えば翻訳自体の能力がなくても、できあがった文章をチェックする能力さえあれば無事に納品できてクレームも来ない?
単価が日本国内の同等のサービス価格帯より高め(世界標準ってことなのだろうか)なので、英語でうまくプロフ文章やサムネ画像等々でアピールできればまだギリギリ、ブルーオーシャンぎみに稼げるかも?
Claude4がすごいらしい
https://x.com/kosuke_agos/status/1925694271643869439
ストリートアカデミー(略称ストアカ)「PythonとDjangoでWebアプリを作ってSEOでマネタイズ」受講中
PythonとDjangoでWebアプリを作ってSEOでマネタイズ
https://www.street-academy.com/myclass/183218
受講中。
(私のほか、知人2名と一緒に)
プログラミングでWebページをつくれるようになろう、という内容だが、講師の経歴・ノウハウetc面でWebマーケティングとSEO、アフィリエイトなどインターネット上での収益モデルを活かした「マネタイズ」が実は価値として大きい様子が初回のガイダンスから伺えた。
とはいえ前半はプログラミング主体。サービスを作れないとマーケティングも何もないからね。
私はIT経験者という経歴が幸いしてか、全10回の内容を前倒しして進めることができている。
講師がGoogle Meetを通じてオンラインで教えてくれ、資料はPDFで配布される。
講義とプログラミング実習、バグFIXなどの際は画面共有でソースコードの画面を見つつ、話し合うスタイル。
Djangoはさすが、こなれているというか、「こんなに楽でいいの?」と驚く機能をまるまる備えていて心強い。
ITの開発現場からは離れて久しいこともあり、いまどきの技術にリカレント教育的に取り組み直せた点と、プログラマとしての勘所を取り戻すリハビリの意味の両方でありがたい体験となっている。
プログラミングはまったくの未経験という女性も一緒に受講しており、進度が違うなどあるものの、
・進度が異なる生徒が同じ回に参加しているときの講師の采配(1人ずつ履修範囲がずれる形になっても適宜フォローしていく)
・まったくの未経験でアラフォーの年齢ながら、なんだかんだ躓きつつできるようになっていく知人女性の頼もしさ
を垣間見る機会ともなっている。
IT研修講師としても活動している自分の参考になってくれている。