その嫌悪感ってのの生じるメカニズムは以下にクソ丁寧に詳述した通り
このようなことは、私はしたくない。だが、ヘッジに値すると判断した。このヘッジすらも効かない未来となったのだとしたら、それは自明の終了である。
これを見せる可能性のあることは想定している。だが全く望ましくはない。
そしてこれを拝読してもらって尚、熟考しない、あるいは熟考のち私の苦痛を理解できない(これは彼女自身が当該の新方針を再撤廃する、ということを必ずしも意味しない)、といったような場合、それはやはり交際関係の本当の終了を私は決めることとなるのであろう。
彼女を助けたのは私だけど、当該母からはあんま言葉伝えとかも直接の感謝もない(今の所)のが引っ掛かってる。(普通に印象は良くないよね。)
そこに追い打ちを掛けるように、"あなたの子を救ったのに?"、"彼とはするな"って、もし私の立場に正当に立てる心のある人間なのなら、私が心底悪い気分にならない理由があるわけないことを痛く感じるはずであるだろう。
彼女の提案した"中にしよう"という話は、彼女自身が否定する結果となるのではないかと予測。不信指数は40%
ピルの話になった彼女母から不安を煽られ、約束と違う行動に靡く(あるいは看護師さんもありうるが、期待値は低い)
そうなったら私から別れを切り出すかもしれない。大げさに聞こえるかもしれないが、私の内面と論理には明確な妥当性がある。
"話を無下にされたことについて残念だ"、それはあるが、それというより、もう少し複雑なものである。当人にはこれをヒントなく察するに能力が足りないだろうから丁寧に説明をしなければ分かられないだろうが、
つまるところ、"「関係を続けたい」と至って私は君を救ったのに、そのリターンが「あの話は無かったことにしよう」は恩を仇で返す行為であり、相手の気持ちを無視し軽んじる行為であり、そして何より私の「やっぱり救わなければ良かったな(先週の事案に続けて二度目の確認)」を誘発する行為である"ということ。
この「やっぱり救わなければ良かったんだな」は、交際/コミュニケーション/リスペクト/重要視(愛情)の根源に関わるコアコンセプトである。"死んでもいい/消えてくれてもいい/大事にする必要がない/(見)殺してもいい対象"として強く(二度目なのだから、当然)認定される、ということが何を意味するか、ということだ。
この他にも私(というより男性的心理一般)の処女信仰なども背景としての理由には一部関わる。女の処女がアクセスできない場合、その後に残る魅力とは"処女性"である。これは例えば不慣れであることだとか、ぎこちのない様だとか、女の子らしさ、かわいらしさといったものであり、これは"経験の多くないこと(または深くないこと)"と換言できる。
例えば具体例を言うなら、"彼氏がいたことがある < 行為の経験がある < 複数または多くの経験がある / 多様な行為(sm等)の経験がある / 同棲経験がある / "中"の経験がある < 子どもがいる(いわゆるバツ) < 元妻 < av女優のような類" といった具合に非処女性指数は大きくなる。処女面にアクセスできない以上、求めるのはこれらの非処女性であるということである。
この非処女性への本来あったアクセス権を、努力・献身・時間・心配・重視を大いに内包した私の救命に際する意思決定と行動への"報復"としてか奪取されることについては、私はそれを何と形容すればよいのだろうか。それの条理は一体どこに求められると言うのだろうか。